古い保守派と保身の関係に関する考察

※この記事は平成26年4月当時に投稿されたものです。

 

昨今におけるチャンネル桜を中心とした保守論壇の分断・分裂ですが、やはり安倍内閣をどう見るかと、戦後体制の価値観そのものが軸となっているような気がします。このような観点ではどうしても世代の問題が大きくなりそうなので、思いついたことを書き連ねてみたいと思います。

 

戦後体制に塗れた古い保守派の皆さんによる戦後体制脱却を実現するための答えが、安倍ちゃん応援団になる事でした。日本人が不幸になりそうな新自由主義的な政策が検討されても、安倍内閣の護持こそが最重要だと言わんばかりで、いやはや滑稽なお話です。例え「日本を主語とした保守」と自称しても、もはや「安倍を主語とした保守」にすり替わり、特定の政治勢力や政治家を保守する、いわば「保身」のための政治主張と言わざるを得ません。保守という概念はいとも簡単に保身へと変貌を遂げてしまうのです。

 

私は保守と保身は紙一重であると以前から考えてきました。保守する対象が各々の価値観や優先順位によってバラバラですので、その対象の相違が表面化した時には、各々のメンツと名誉にかけて争いが起きるのも自然かと思います。経済政策におけるリフレ派の異様な態度を観察すれば、内ゲバが激化しているのは明らかでしょう。彼らも自らの経済理論を正当化するために必死なのです。

 

さて、このように保身に移り変わりやすい保守ですが、戦後体制の中にどっぷり浸かっていた古い保守派の皆さんが、年を取ってから「戦後体制から脱却だ」と声高に叫んでも、戦後の価値観から抜け出すのは至難の業だと思います。奇しくも団塊の世代を中心に自らを省みる事が不得手な方々が多いですから。第一次ベビーブームによって同世代同士で激しい競争に晒されながら、戦前の否定から始まり「金の卵」として高度成長からグローバル化まで右肩上がりの体験をしてきたのが団塊の世代の方々です。「自分が自分が」という価値観に染まりやすい上に、戦後体制とは彼らの人生そのものであり、彼らの成功体験は戦後体制下の成功体験と重なります。

 

このような背景を踏まえると、安全保障を米国に依存した上での自由競争・市場原理・グローバル化といった新自由主義的な経済政策は、戦後日本が成し遂げた経済成長の成功物語であり、一番人口の多い団塊の世代の方々のプライドそのものです。これでは古い保守派が米国と新自由主義を持て囃して当然だったと思います。さらに、第二次安倍内閣樹立は保守派にとっては悲願の出来事でした。安倍内閣は古い保守派にとって一心同体の存在であって、政策の中身は安倍内閣の存続を天秤にかければいくらでも妥協してしまいます。安倍内閣に対する否定的な意見は、古い保守派にとっては自らの政治的主張と活動の正当性が問われることになるのです。

 

戦後体制の脱却とは、米国従属からの脱却であり反米を覚悟する事だと考えます。ところが、結果として戦後を69年間も続けてきても平気でいられた「古い保守派」には理解できない価値観だと思います。戦後体制を乗り越えるためには、私も含めて戦後体制下で生きてきた人々の人生そのものを顧みなければなりません。時には自己否定も必要でしょう。しかし、認知的不協和に陥った古い保守派は、みるみるうちに自己正当化へと終始し「保守」はあっという間に「保身」へとステージが移り変わります。今後も古い保守派の方々を中心に、自らのメンツにかけて安倍首相を擁護し続け、自らの人生経験に裏打ちされた新自由主義的な経済思想が容認されていくことでしょう。

 

チャンネル桜の代表で団塊世代である水島氏はしきりに「絶望が足りない」と論じていますが、水島氏自身は認知的不協和で絶望から逃げているだけなので、絶望に飢えて当然の話です。そして、これからも自らを省みる事が出来ずに、志を同じくするはずの日本国民に対して絶望を促していくに違いありません。これらは決して特定の世代に限ったお話ではないとは思いますが、古い保守論壇の限界が見えてきた気がします。

 

じゃあどうすればいい!?

 

古い保守派のプライドがズタズタに引き裂かれるような事態が起きない限り、この流れはしばらく止められないでしょう。例えば、数年前の民主党による政権交代です。私はそんな事態に陥るのは絶対に嫌ですが、今やれる事は、民主党政権でも安倍政権でも変わらず、ひたすら日本人の当たり前なナショナリズムを追求するのみです。

 

相変わらずまとまりの無い文章で、長々と失礼しました(´・ω・`)